酒井俊幸(さかいとしゆき)さん:山松養鯉場
 

松の助という屋号で広く知られる山松養鯉場の酒井俊幸さんは、1995年の全日本総合錦鯉品評会において大正三色(三色:サンケ)で総合優勝を果たし、「松の助と言えば大正三色」と言われる程の地位を確立。現在では松の助の鯉を親鯉に使う生産者は多く、松の助系統と言われる血筋となっている。
酒井俊幸さん

酒井俊幸さんと息子の俊彰さん私の家は農家でしたが、人に米を売る程の生産はしていない小さな農家でした。錦鯉も飼っていましたが、田んぼに稚魚を放す程度でした。私は中学を卒業してすぐ働き始めたのですが、当時所有していた土地で米を作る仕事に夢も希望も持てずにおり、やはり仕事をするのであれば夢を追いかける仕事をしたいと思い、米を作った時に得られる収入を支払うことを条件に父から田んぼを借りて池に変えたのが始まりでした。当時新潟県だけで米の生産量で100万トンを超えることを目指していたので、「誰に断ってこんなことをやっているんだ」と言われるなど、苦労も多くありました。

松の助三色最初に手がけたのは山吹黄金と藍衣で、藍衣は早くに衣が出る親を使うことで、通常何年も育たないと出てこない衣が当歳の段階で出る藍衣を3年で固定させることに成功しました。大正三色も作っていたのですが、今から30年ぐらい前でしょうか、「松の助の鯉は大きくならないからなあ。」という声が耳に入り、今度は大きく伸びる鯉を作るぞ、という意志を固めました。そこで、山梨県で養鯉場を営む弟が大正三色の良いメス鯉を仕入れたので、当時持っていたオス鯉をかけたところ、大きく伸びるようになりました。しかし、どうしても体が少し細くなってしまうので、思い切って1m30cmの真鯉のメスを大正三色にかけてみました。最初の頃の仔取りは黒い体に斑点があるものばかりでしたが、そこから少しずつ改良を重ねていき、大きく太く伸びる大正三色を作ることができました。それから全日本で優勝し、松の助三色というものが固定されてから20年以上が経ちます。その後は質にもかなり力を入れてきました。特に息子の俊彰は、誰に何を言われても考えを曲げない職人気質のところがあるので、質への思い入れは強いです。俊彰は小学生の頃から自分の意志で金魚の親を買ってきて、自分で子取りをするような子でしたので、本人の頭の中にも将来鯉の仕事をするということは当たり前のこととしてあったのではないでしょうか。高校を卒業してすぐに働き始めてから今日まで、ずっと彼の仕事を見てきましたが、今では私が「もっと型にもこだわった方がよいのではないか」と思うほど、質に対してのこだわりを持って取り組んでいます。

山松養鯉場の野池鯉を見る目を養うと分かっていただけるようになると思いますが、私たちの錦鯉は、粘り気があり、艶があり、そして長持ちする緋を、その大きく太く伸びる体に乗せることができるようになってきました。そうやって究極にいいものを追求することが原産地としてのブランドであり、誇りだと思っています。1匹の鯉にかける生産者、というプロ意識を常に持って取り組んでいます。

鯉は大きくなるにつれて模様もそれについてくるとは限らないので、私たちは常にその鯉が80cmや85cmの大きさになった時のことを考えて育てています。やはり長くお付き合いしていただいている愛好家の方々はそれをわかって鯉を買ってくださいます。是非、他の愛好家のみなさんにも体がしっかりとした息の長い鯉を飼っていただき、息の長い愛好家でいていただきたいと願っています。丹精込めて育てた鯉ですから、私は愛好家の方々には鯉を見る目を養いながら、錦鯉を長く大切に、そして楽しく飼っていただきたいのです。そうすると鯉を飼うことがもっと楽しくなり、鯉をもっと好きになると思います。それに応えるよう、私たちはこれからも最高の鯉を作る努力を続けていきたいと思います。

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(取材日:2005年9月14日)

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