鈴木清司 (清十郎)(すずきせいじ(せいじゅうろう))さん:鈴清養鯉場

800年以上前から2004年の震災まで小千谷市・十二平の地で暮らし、先祖は庄屋も務めていたという由緒ある一族の当主。先代の父、鈴木清十郎氏の代から本格的に錦鯉の生産を始め、昭和三色で名声を得る。
住まいが震災の中心地であったため、現在仮設住宅で生活しているが、今も昭和三色に情熱を燃やし、研究に励んでいる。

鈴木清司さん

十手私の先祖は鎌倉時代から公家の末裔だったと言われ、昔は十二平で庄屋を務めていたそうです。左の写真は、当時、実際に使われていた十手です。鈴木家の当主は、代々清十郎の名を継承することになっており、私で30代目になります。


清十郎の昭和三色 昨年の震災により、新しい場所に移ることになりましたが、それまで私の家系はおよそ800年間十二平で暮らしてきました。今は鈴清養鯉場ですが、元々は父親が清十郎という屋号で、1950年頃から養鯉業を始めました。私が19歳のときのことですが、毘沙門天の裸祭りというものがあり、祭りからの帰り道、それは見事な、すばらしい昭和三色の雄鯉を見つけました。値段を聞くと、当時月給が1万円にも届かない時代で30万円だと言うのです。しかしこれはどうしても欲しいと思い、帰って父親に相談したところ、早速銀行に電話をして、翌日の朝一番でお金を持ってきてくれました。最終的には35万円で購入したのですが、その鯉を手に入れることができて本当に嬉しかったのを今でも鮮明に覚えています。その後、以前親戚に売った昭和三色の雌を買い戻し、この2匹を原点として清十郎の昭和三色が始まったのです。これらの鯉がいなければ、今の清十郎の昭和三色はないと言っても過言ではありません。その後、外からの血を入れた交配もあり、純粋な系統を残すことは難しくなってきましたが、今でも最初の原点である2匹の血筋は色濃く残っています。私の昭和三色は皮が薄く、墨がきれいであること、そして優しい感じのする白地の柔らかさが特徴です。皮は厚い方が大きくなりますが、私は鯉の大きさよりも見た目の美しさを重視しているため、鯉をどんどん大きくするのではなく、薄皮できれいな、美しい鯉を目指しています。


鈴清養鯉場海外の愛好家の方々にも楽しんでいただけるよう、昭和三色以外に、紅九紋竜と銀鱗昭和を作っています。現在、紅九紋竜の生産はお休みをいただいておりますが、これも皆さんから高い評価をいただくことができた鯉です。紅九紋竜を初めて作る際、平石さんという先輩に「変わりものを作る場合は秋水の腹を借りなさい。和鯉を作る場合は浅黄の腹を借りなさい」と教えていただきました。そこで、紅九紋竜の雄と秋水の雌をかけたところ、なかなか良い鯉ができたのですが、少々地味な感じになりました。当初は、この地味な味わいを好まれる愛好家の方々に支持されるような鯉を目指そうとしたのですが、思うようにいかず、今度は方向を変え、派手な紅九紋竜にするためドイツ紅白をかけてみることにしました。その結果、朱色と黒の模様がすばらしい紅九紋竜をつくることに成功し、錦鯉に派手さを求める愛好家の方々にご満足いただける鯉ができたのです。

鈴木さんご夫妻 あるとき、伊佐さんや細海さんから、「人間が休むように鯉も日曜日くらいは休まないとだめだ」と言われました。そこで、1週間のうち1日だけ鯉に休みを与えてみると、体内から食べ物が排出され、よく運動するようになり、かなり体調が整いました。これからは鯉も週休2日にしようかと考えているほどです。先輩や周りの方々が教えてくださる知恵を借りるということはとても大切で、ありがたいことだと思います。しかし、全てを人に頼ってはいけません。紅九紋竜をうまく作れなかったとき、平石さんから、「自分で考えなさい」と言われたことがあります。鯉は人間と同じ、生き物です。太ったり痩せたりするのには理由があり、病気になるのにも原因があります。良い鯉をつくるには、よく観察し、考え、日々研究を怠らないこともがとても大切なことだと思います。私もいろいろなことに挑戦し、ときには10年という歳月をかけて鯉を作り上げたこともあります。

愛好家の方々にも、自分の池を知り、人の池も見て、良い鯉を育てるためにはどうしたらよいのか、常に考えていただきたいと思います。

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(取材日:2005年9月14日)

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